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満州の荒野の夏 [よしなしごと]

1945年のこの季節、わたしは母、弟、妹と中国東北部の荒野にいた。
父は当時の満州医科大学(現中国医科大学)に勤務していた。戦況が厳しくなってきた
ことで、女、子供、年寄りは疎開せよと言うことになった。母は死んでもいいからここで家族揃って
いたいと主張したが、許されず厳しい冬のためのコートを詰め込んだトランクを持ち、生後8ヶ月の妹を胸に、大きなリュックを背に、3歳の弟と、5歳の私を連れ、大学関係者のグループとともに「団」を作り無蓋車に乗り、歩き、無人の開拓村や、小中学校の校舎に、大きなポプラのの根本に眠り、ソ連参戦によりソ連兵の乗るジープや、タンクから機銃を向けられ、撃ち殺された人もいた。その現場にいることはなく、まだ硝煙ののぼる情況に出会ったことがあり、運が良かった。
母は弟が、疲労と空腹で歩かないために、列から遅れて見えなくなってしまう。母を待つといっては、母が私を頼んだ隣のおばちゃんを困らせたようだ。
退役軍人が団長であったが、その家族は無蓋車の立錐の余地のない真ん中にいた。わたしは、妹を抱かなければならない母の命令で、シーツをつないで作った屋根代わりの布の端をしっかり握り、びしょびしょに濡れているときに、彼らは、粉ミルクを溶かして家族で飲んでいた。忘れられない光景だ。弟はそれを見て「おかあちゃん、僕には?僕には?れいこちゃんには?」と言うのを、黙らせるのに必死であった母の様子がわすれられられない。
何人もの赤ちゃんがなくなり、道端、線路際においてゆかれるのを見た。いつも優しい言葉をかけてくれたおねえさんがある朝いなくなっていた。ずうっと後になって知ったが、「女を出せ」と言ってきた中国人に「私には家族がいないから」と進んで向かったとのことであった。以後行方不明とのこと、、。
弟は下痢をするようになり、道路で売っていた焼き芋をみなにしられないように母が買って食べさせると下痢はとまった。栄養失調のための下痢だったのだ。
8月に入って、朝夕がめっきり涼しくなり、先行きますます心細くなり、ソ連が参戦したからには、もう北には行けないということで奉天、現在の中国遼寧省瀋陽 へ帰ることになってその方向へ向かうが、汽車は機関士がいなくなったり、のっとられたり、石炭がなくなったりで止まったり走ったり、仕方がないので、歩いたり、、、野宿の連続であった。
また、日本の軍用トラックに中国人が沢山乗って私たちの一団をゆびさして、笑っているのを見て、日本の敗戦を確信したそうである。
わたし自身、遠くに奉天の建物や煙突が見える野原の真ん中の列車の横で何日も過ごしたその光景が目に残っている。
妹は3日間お乳を飲まなくなっていた。母は何人もの赤ちゃんにお乳のでなくなったその母親にかわって自分の乳をあげていた。
漸く、機関士が来て奉天へ帰ることが出来る寸前に、容態の悪くなった妹に母は、持っていた強心剤を、もし打たなかったら後悔するだろうからと未消毒の注射器でぐったりしている妹の腿に注射した。それを見ていた疲労困憊の女医さんが「大丈夫?大丈夫?」ときいていたそうである。彼女自身医師であっても、薬も消毒液も何もない情況ではどうしようもなく、「先生、何とかして!と言う叫び声に、「ごめんなさいもう勘弁して、、と言って泣いていたそうだ。母の決断の結果、妹は、ぽっと目を開け、水をコクっと飲んだ。妹は生き残ることが出来た。現在、還暦を迎えた妹の腿にはまだその時の注射の痕のへこみができている。
駅には父が迎えが来て、大学の寮に行った時、栄養不良のため、体力がなくなり、階段が上れなく這いながら上ったときの手触りは、今でも記憶にのこっている。このとき、もう日本敗戦の2週間後であったという。 母は、お父さんと一緒に奉天にいれば、こんな危険な目にあわなかったのにと、
くやんでは、父に「一人も殺さないで連れ帰ってきたお前は、偉い、、、。」と何時も言われていた。
このとき母は28歳であった。
こうして書いてみると、母から何度も聞いたはずではあったが、何も知らない、覚えていないことがよく分かった。
戦争はもう絶対にしてはならない。


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コメント 3

わかめ

命がけでこども達を守り抜いた、若きお母様の姿が目に浮かんできました。
5歳でも長女のyさんの働きも助けになったことでしょうが、
28歳で本当に偉かったですね。

結局、無駄な逃避行だったのですね。
奉天から日本への引き上げ時にも苦労をなさったのではないでしょうか。

本当に親世代の生き抜くための体験をもっと詳しく聞いておくべきだったと思います。
by わかめ (2005-08-11 16:08) 

れんれんのママ

先生、こんにちは。
戦争中のお話、読ませて頂きました。ご苦労されましたね。
そして、ご家族もご無事で、本当に良かったです。
もし先生が日本に戻ってこられてなかったら、歯を治して
頂くことはなかったかもしれませんね。
私の父、祖母は小倉にいたらしく、もし原爆が目標通りに
小倉に落ちていたら、私もいなかったかも、、と、たまに
思います。
そういう結果、先生と出会うことができたことに感謝しています。
本当に、戦争はしてはならないことだと私も思います。
大変な記憶について書いて頂いて、ありがとうございました。
by れんれんのママ (2005-08-12 23:00) 

ytakahahsi

両親のお墓参りに出かけていました。弟、妹、引き上げてから生まれたもう一人の妹と会って、楽しい時間が持てました。

わかめさん
本当に無駄な逃避行だったのです。この戦争にもこんな無駄な犠牲が多かったですね。
私たちは本当に幸運でした。母の生涯を考えるとき、よくやったなあと思わずにはいられません。読んでくださってありがとうございました。

れんれんのママさん
コメントをありがとう。 小倉に原爆が投下されていたら、そう、貴女とのめぐりあいはなかったのですね。どんな理由があろうと戦争はNOですね。まして核爆弾などもってのほかですね。
by ytakahahsi (2005-08-13 22:51) 

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