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APOC(アジア太平洋矯正歯科学会)と第4回世界女性会議/北京会議 [旅行日記]

3月31日〜4月2日まで北京で開催されるAPOC(アジア太平洋矯正歯科学会)が開催されます。
展示発表をすることになりましたので、準備をしております。中国の国際的に開かれた矯正歯科学会には
今まで3回参加しています。わたしは、いつも吉林大学、矯正歯科の教室員のみなさんがお世話下さるの
で,のびのびと楽しく過ごしてきました。今回は12月にこの大学に行った時にはこの学会のことを教室員は誰もしらなかったので、ちょっと驚きました。どうして知らないのか不思議でした。中国は本当に広いんだなあ、、、と思ったものでした。       しかし先週、この教室からも3人ほど参加すると言うメールがきました。

矯正歯科関係以外の世界的大会としては、1995年に北京で開催された「第4回世界女性会議/北京会議」に参加しました。この会議は、日本からも沢山参加者がいました。
私は、当時代表をしておりました「カラ=西アフリカ農村自立協力会」の現地代表の村上さんと行きました。彼女はアフリカ、マリから、私は、日本から別々に北京に向かいました。この時には、北京空港に到着するとひとまとめに,バスに誘導され、北京郊外の田園、山の中のホテルにつれてゆかれました。申し込みも別々でしたので、ホテルも違い、電話もよく通じず,彼女とはなかなか会えませんでした。それはともかく、飛行場に迎えに来てくれた吉林大学の友人たちは、飛行場で二言ぐらい話しただけで、無理矢理はなされてバスに乗せられたのでした。彼らには私の宿泊するホテルの名前も教えられませんでした。後日聴いた事によると、一般の中国人は、この会議が何かも知らせられていなかったそです。

この会議には政府の会議には190カ国ぐらい参加したそうで、同時に開催されたNGOフォーラムに30000人が参加し,全体会と5000のワークショップに参加して女性の人権、慰安婦問題などの女性への暴力、貧困、平和、教育、健康などの様々なテーマで話し合われました。私には大変強烈な印象を残した会議でした。この翌年、北京はオリンピックに立候補するべくこの会議を立派にやり遂げなければならなかったのでしょう。しかし、この会議のマネージは中に入った私にしてみると,これでは、とてもオリンピックは開けないと言う気がしました。

北京の街に、個人で出ることが出来ず、全く自由がないのでした。 団体で来ている人達はそれなりのスケジュールで楽しく動けるのかもしれませんが、一人参加は、どこにも行けない、会場と、ホテルの往復だけ、中国人の友人に会うのはもっての他と言うありさまでした。私の宿泊したホテルは、会場からバスで1時間ばかりはなれた雑木林のなかの自然たっぷりのところですが、中国語しか出来ない運転手が一人のっているだけで、宿泊客はほとんどがヨーロッパから来た人達でした。ほとんどが女性で,ほんの数人男性がいました。このバス停とホテルの名前を、大勢の同宿の人達に、漢字で書いてあげたのが良い思い出です。会場と北京中心部はバスで40~50分の距離でした。

3日目になって、ようやく天安門の方へのバスに乗ることが出来まして、郵便局をみつけ、迎えに出てくれて数分の逢う瀬だった友人たちにお土産をおくることができました。

やはり、北京はこの時のオリンピックの選考には漏れました。今度は勿論こんなことはないでしょう。12年も前のお話なのですねえ。ついこの前のような気がしますが、、。


湯河原の梅林(幕山梅林) [旅行日記]

昨日は月1回の日曜診療でした。 今日は代休ですが、月末ということもあり午前は診療所で事務仕事。
銀行へ出かけたり、来てもらったり、、、。

夕方、4時頃から湯河原の梅園を見に行きました。約40分の運転で到着。ライトアップの6時まではまだ時間があり、2メートル間隔ぐらいで植えられている梅林の中をあるきまわることができました。だんだん暗くなって来て足下が見えなくなりそうでしたので下におりて、ライトアップを待ちました。

じわじわと明るくなる照明の下、まだ5分咲きの梅は思ったより綺麗でなくてがっかり、、。満開の時にまた来ましょう。
夕飯を、磯料理のお店で頂き、美味しかったです。 月曜の、寒い冬、どこもここもがら空きでした。


歯グキがはれた、 [旅行日記]

2週間ほど前に高校時代の友人からメールが来ました。歯医者に行っているのだが、歯茎が腫れているので見てもらったら、「歯肉とほっぺたの肉がくっついてしまっているこれは切り取らなければ」といった、そんな怖いことはしたくない別の歯医者に見てもらいたい紹介して、、」ということでした。これだけの情報ではまったくわからないので、彼女の隣町の私の弟に紹介しました。「ものすごく神経質で、歯医者が大嫌いな人だけどで、、、」「自分の弟のことを言うのはなんですが、歯科医としては良い仕事をする方だと想うし自分だけでわからなければすぐ専門医を紹介する人だから、、」という私のレスで彼女は治療をしたそうです。

今日所用があって弟のところに行くと彼女がいて1時間ばかりおしゃべりをすることが出来ました。地方公務員として働いて定年退職、同年のご主人も退職、二人で悠々自適幸せいっぱいに過していたそうですが、去年から彼女のお母さんが弟さんのところから移って、一緒に暮らすようになったそうです。

歯のほうは、「切らなければいけない」といった歯科医師がその部分に金属冠をはめたばかりだったのでその刺激で歯グキが腫れたのだそうで、弟の「もう少し様子を見ましょう。」の言葉に感激した、、とのことでした。[様子を見ましょうと言う判断が大切なのよ、、待ってたら一週間目にはちゃんとなおったわ。」と、彼女はいう。

弟がいうには、金属冠をはめるとはれることもあるから、丁寧に歯磨き指導しただけとのことでした。「姉さんと同じ年にしては歯も全部残っているし、8020になれるだろう」ということでした。

勿論彼女は、サパのサポーターのひとりです。


ギニアへ行く−3ー いよいよ出発      2005-02−6 [旅行日記]

かねてより出かけたいと思っていた2000年にギニア活動地へようやく出かけることが出来ました。
そのときの日記です。
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1月28日(日)
新宿から成田エクスプレスで、空港第1ターミナル駅に到着。2時間前の待ち合わせ時間にはまだ、大分余裕がある。
ぶらぶらして足りない物を買う。旅行中に荷物が無くなることもあるおちうことで、2〜3日は過ごせるよう名衣類などを機内持ち込み荷物に入れておくようにという野澤さんのアドバイスもあり、着ない持ち込みのリュックのその重いこと、久しぶりの重量感である。なにせ、着る物ばかりではない。内用・外用薬、殺虫剤、カメラ、フィルム、懐中電灯、、、減らせるものがない。

これも娘に借りた赤いバッグ、大嫌いで使うことの無かったウェストポーチまでこのエアーポートで購入し、パスポートと往復のチケットとトラベラーズチェック、現金を大切にしまい、他の現金をバックとリュックに分けました。パリの乗り換え時にスーツケースが見知らぬ国に行ってしまったら、ギニア人の日常着を買って見るのもわるくないかも、、等と縁起でもないことを考える。

チェックイン・カウンターの前で3人が出会いました。なんと、野澤氏はベンチにもなるパイプのついた小さな黒いリュックと、ウェストポーチだけではないか、彼は今まで何度も出かけているので事務所に必要な物を措いてあるのだそうです。渡辺君は、私と同じにリュックを背負っている。
成田/パリ AF273 21:55にチェックイン。

荷物の検査で、先ず、私の殺虫スプレーをとりあげられかけた。「なに??」「何故??」・・爆発物に該当する・・野澤氏が今まで何度もこれを持って搭乗したが、マラリア予防のための必需品ということで持ち込み禁止にはなったことがなかった、主張したが規則で決まっていることだから絶対に駄目と私のリュックをあけさせ、取り上げた。それではもっと上司の責任者をお願いするというと2人ほど入れ替わりに同じようなやりとりがあった、「現地で買うことは出来ないのですか」「いえ、現地には夜到着するし危険度3の所でもあり買いに行けるわけがありません。その夜に使う分がこれなのです。NGOの活動には必需品でほかのNGOでもみな持っていきます、それが何故エールフランスだけそれもおそらく東京だけこうなのですか。」説明に見せられたパンフレットの絵はどう見ても我々のもつスプレーではなくボンベの絵だ。

漸く、責任者の一人が出国手続きの所でわたしてくれることになり、無事、持ち込むことが出来た。冷静に沈着に説得する野澤氏はさすがだ。彼は、「シャルルドゴールでは、まず、何も言われませんよ」という。  ほぼ満席。 20分遅れで出発した。

1月29日(月)
パリ到着午前4:30。コナクリ出発は午前11:00シャルル ドゴール空港での時間をどうして過ごそう。乗換口には行かず1度入国して、買い物をしたいと野澤氏。広い空港の中は、人が本当に少ない。ある時間は目の見える範囲には私達3人しかいないこともある。出発フロアに行き暫くベンチで時間をつぶす。サロンはないしあってもこの時間では利用できないだろうし。

6時半頃になるとぼつぼつ人も出てきて、軽食堂も開店したので入って、コーヒー、
クロワッサンを頂く。渡辺君と私は初対面なので、この暇な時間はお互いを知るのにありがたかった。亡母のすすめで私も25年前、入会していた日本有機農業研究会が現在も活動しており、彼がその活動家として情熱を持って農業をしていることがわかる。共通の知人もどうもいるみたいだ。野澤氏は10年前から彼のところから、米、野菜、卵などを購入しているそうだ。私は、自宅の小さな庭に菜園を作り、近くの農家で、有機農産物を買っている。

9時をすぎて、店も開いてきたので、買い物に行く。私はもう何も持てないので買わない。きょろきょろ、大きなリュックサックを背負って歩くのは大変だ。野澤氏の買い物はなんとマラリアの治療薬だった。ギニアで1番罹患しやすい熱帯熱マラリヤのそれではなく1型、2型、3型の治療薬だそうで、やはり、ハマダラ蚊に刺されないように注意を払うしかないようだ。

出国口での荷物の検査時には殺虫剤スプレーは、何の問題もなく通過した。野澤氏のいう通りだった。成田でのあの厳しさはなんだったのだろう。

コナクリ行きのゲートに並んでいるときに、5人の手錠をはめられた若い黒人が
4人の国際警察の徽章、腕章を付けた男性3人、女性1人のオフィサーに私達の眼前を暴れながら抑えられながら、なんと、私達が乗る飛行機に引っ張られて行くではないか。よく見ると、コーナーにはもう5,6人同じような手錠の人達がいる。日本なら、衆人に見られると言うことはほとんどなく、そのようなときでも、手錠の手や、顔には何かがかぶせてあるのが普通だ。きっと、彼等は強制送還されるのだろう。
機内に乗り込む。見える範囲では80%が肌の黒い人達。黄色が我々を含めて、4人。白い人が15,6人か。

なんと、スチュワードばかりそれも屈強の。ファーストクラスの方にスチュワーデスが1〜2人チラッとみえる。あの送還される人達が乗っているのだ。
シーンと静まり返った機内はやはり異常な感じだ。
出発し、何事もなくとびつづける。サハラ砂漠を上から見る。砂ではなく岩、石、土であることが察しられる。

マリ共和国の首都バマコに到着。約60%位の乗客が降りただろうか。約1時間後、離陸。乗務員達の表情から、もう彼等は降りたのであろう。ファーストクラスとの間のカーテンもあけ放し。カートを押したり乗客の世話をしながら笑っている。窓から見るバマコ飛行場はサハラから吹き寄せる風,ハルマッタンにより薄茶色のベールを越しに眺めるようにぼーっと煙っている。月も街路灯も。閑散とした、割と小さな飛行場だ。3年前まで所属した[カラ=西アフリカ農村自立協力会]の事務所があるところなのだからよく見ておきたかった。

予定より約3時間遅れで、コナクリ到着。バマコに比べるとだいぶ大きな飛行場だ。
空港ビルも大きい。人のざわめきが沢山聞こえる。建物から出ると大勢の人、みな私達の方に手を伸ばしている。物乞いをしているのだろうか。黒い長い腕に捕まえられそうで怖かった。
大使館のA氏、スマさんが迎えて下さる。感謝。  無事、到着。

ホテル マリアドール レジデンスに到着。


ギニアへ行く−2ー 出発の準備           2005-01-17 23:55:41 [旅行日記]

2001年の活動地ギニアへの旅行記です。ギニアは車の窓の外の景色や人々の暮らしなど現在と全く同じ、変化は見られないと言ってよいでしょう。

1月5日(水)
今日は黄熱病ワクチン注射に横浜診療所に出かけました。行ってみると今までになく混んでいいました。家族づれも3組程、小学生もいる。この人たちがみな黄熱病というわけでも無さそうですが、次回を予約をしている人もかなりいました。このワクチンだけは前日までに予約が必要ですから。
1月8日(月)
昨日今日は、連休です。残念ながら、私はワクチンのせいか「だるい、、熱っぽい、、、食べたくない、、」という体調の悪さでごろごろして過ごしています。
1月11日(木)
今年初めて事務所へ。ギニアへの旅行のチケットが取れていました。
往路は1/28、パリ経由コナクリ着1/29、
帰路は2/10コナクリ発、2/11パリ着、2/12成田着。
カレンダー上の日付だけを見る限りでも、まあ、、ギニアは遠い、、、。 飛行機代が約195000円。ホテルなど現地では1日約100ドルを用意することにしました。これらの支出は勿論自弁です。ただ、会の活動の一環ですので、私が支出した金額は会に寄付しサパの活動のための収支として、記録に残ることでしょう。
1月18日(木)
昨晩、幼なじみが私の現地でのマラリア罹患の心配をして是非行くようにと紹介してくれた、
(財)日本熱帯病協会に行きました。
マラリヤの予防薬について説明を聞いてきました。
そうしましたら確実な予防薬は無い、しかし飲まないと罹患した場合に
重症になると、大変だからとのことで推薦頂いた薬を分けて貰いました。

それからサパ事務所に行き、事務局長にこのことを言いましたら、すると、
この薬は、最悪の薬で、彼はこれを飲んで血圧が下がり頭も上げられなくなった
現地で寝たきりになったそうなのです。若い女の子で
サパの会員がやはり現地ヘ行った際にも、これを飲んで2日
動けなくなった、、。これは、飲まない方が良い、というのです。

彼が、3年前にマラリアでないのに誤診され、帰国してから、
そのことが解ったときもこの薬を飲んでいたために、治療薬の決め方
が難しくなったと、日本のマラリアの権威である群馬大学の教授が言ったとのことです。

1月19日(金)
頼んでいたマラリアの予防薬の最近の文献が手に入りました。それによりますと、
(財)日本熱帯病協会で、手に入れた薬は、血圧が降下するから心臓、血圧の
不安定な人には禁忌とありました。事務局長と女の子の症状で下がりすぎて、
2,3日おきられなかったのと一致します。
彼も彼女もは日常的には血圧も、心臓も悪いわけではありません。
もう一つ困ることは、この薬を予防薬として飲んだ人が
マラリアに罹患した場合には、最も良い治療薬であるキニーネの点滴は1週間
できないということなのです。こちらの方がもっと重要です。
それで私は、この薬は服用しないことにしました。

熱帯病協会の方はいまだにこれを勧めている、、、この協会は、従来の日本の熱帯病予防法
皆無の医療(最近はかなり重要視されるようになりましたが)、のなかで、マラリアの予防をしようと熱帯で、働く企業の派遣員のためにできた法人で、他の省庁の情報がはいらないのか、、。
きっと、若い健康な人だけが熱帯に出かけるのでひどい副作用は確認できないのかもしれません。 この文献によるとこの薬は、各国で使用されているようです。マラリヤの予防は進歩が無いのだといって良いのでしょう。

1月22日(月)
所用のため、銀座に行った帰りに駿河台の世界マップハウスによりフランス語の世界地図を買いました。1部1300円でした。現地の学校へのおみやげです。
もっと小さい子には小学生用のサッカーボールを3つ買いました。1つ1600円です。コナクリにもあるかも知れませんが、私の心ばかりのおみやげです。喜んでくれるといいな。

1月25日(木)
いよいよ出発が近づいてきました。とにかく、絶対に蚊に刺されないようにすること。そのための殺虫剤を、沢山持ちました。帰国後すぐに日常の生活に復帰出来ること、、それが私にとって大切なことです。今日は、スマさんのお子さん達のために小さなプレゼントを買いました。

1月26日(金)
今日から、スーツケースのパッキングを始めました。
荷物はないと思っていましたのに、詰めてみるとある、ある、、。
くすり、殺虫剤、などなどで、大部分がふさがりました。


韓国からかえりました。 [旅行日記]

研修のために9日よりでかけておりました韓国より帰国しました。
韓国のソウルからデグへ向かいこの都市の慶北医科大学の歯学部で研修はおこなわれました。
日中でも氷点下の気温の中、大学は冬休み中で人がいないためか午前中はたいへんさむかったのですが、美味しいお昼を頂いてからは体も教室も暖まりましてほっとしました。講義にも、実習にも食事にも韓国の先生方との交流にも大満足で帰国致しました。
韓国では移動のおりにふれあった人達の親切、優しさが大変印象に残りました。
道を尋ねては その場所まで案内してくれる、、、エスカレーターでは私の大荷物がはみ出ていると無理に追い越さずにニコニコと待っていてくれますし、友人はキャスター付きスーツケースを階段で苦労して運んでいると、若い男性がさっと上まで運んでくれたそうです。ホテルなどの従業員も温かなほっとする対応が多く、単なるホテルのサービスの一環と言うだけではないと感じました。
20年前に韓国に出かけた夫はタクシーでもレストランでも日本語で話しかけられては、日本の植民地であったときの仕打ちについての非難や日本への恨みを聴かされて大嫌いな国になりましたが、今回の私の体験では全くそのようなことはありませんでした。
しかし夫の行った20年前には漢字が使われていた韓国では今は全くハングル文字だけになり、特にデグでは街中、駅、などでも見慣れた漢字、アルファベットは全く見られず『ここはどこ???』と大変心細い思いがしました。
レストランでも美味しいお食事にまたこようとカードをもらいましたが、店の名前も読めず残念でした。
美味しかった料理を見て下さい。
今日、韓国の国会議員が中国へ脱北者について調査に行って、北京で記者会見をしようとしたときに中国公安委員に妨害されというニュースがありました。とても残念です。また、ロムヒョン韓国大統領は、天皇陛下の韓国訪問を招待したそうとのニュースもあります。でも実現するかどうか私は疑問に思います。
個人的にはどの国の人達もみなよい友人であるといえますが、国と言うレベルでは長い歴史がよくも悪くも影響しそう早急に良い関係になることはないでしょうが、国家間はぎくしゃくしながら、温かな個人レベルでの交流は濃密になって行くことでしょう。

土産話に韓国の美味しかった食事の話をしてばかりいるため、「どうしても焼き肉を食べに行きたい」と言われ、また今日は日本の韓国料理でした。やはり、本場にはほど遠いお味でした。
本場の美味しい料理のせめて姿だけでもご覧下さい。


今年の冬/長春へ行ってきました。 [旅行日記]

13日から16日まで中国に行ってきました。
中国は吉林省長春市へ。昼間は14日がとても寒く感じましたが、最高気温マイナス18度
でした。最低気温はマイナス20度ぐらいでしょうと現地の人は言っていました。
こども時代を雪国で過しましたし、スキーもそれなりにしたので寒さは覚悟でしたので、防寒伏を十分しておりましたので、まったく寒いという感じはしませんでした。
しかし、都会でのあの寒さにはびっくりしました。昼食のために1時間ばかり駐車させていた車の全部の窓に綺麗に厚い氷花が一面に咲いているのでした。車を降りるとき、建物から出るとき入るとき「滑りますよ」の一言のおかげで
1度も転ばないですみました。

20年来に何度も見に行った偽満州国皇帝の宮殿がすっか綺麗にリニューアルされていました。
蝋人形や、コンピュータ使用のいろいろな展示に替わっていて、埃くさくないのは助かりました。1983年にはじめていったときには、皇帝に玉座(ではおおげさか?)にはだれでも座ることが出来、写真をとりっこしたものでした。
その宮殿への整備された道の両側に新しい商店ができていました。

見物は、私たち3人と、非常に賑やかな方言でそれと解る南の方の人達のグループだけでした。
展示は、溥儀の5回結婚したうちの二人の夫人の写真、生活用品、居間、寝室、衣装など。溥儀の生涯の様々の蝋人形、スライド、映画に夫人達とおなじ、その宮廷の玉座、居間、トイレ、浴室、寝室、面会室、書斎など、、、。勿論、
後半の人生が50%以上を占めているが、それは、極刑となってもおかしくない溥儀を教育し直して中国共産主義の一人民としての模範的な生活を送るようになり、新しい夫人も得て、毛沢東とも面会し話をすることが出来るようになったことを主なテーマとして組み立てられていました。勿論、日本の軍の残酷な状況を主に展示していた頃に比べると、その程度はきわめて小さくなったと思いました。

http://supa.web.infoseek.co.jp/  NPO法人「サパ=西アフリカの人達を支援する会」


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